僕のことを知っていただくために
プロフィールを書いていたのですが
思った以上に長くなりすぎて・・・
幼少〜大学時代の経歴を別記事にしました。
くすっと笑えるエピソードだと思いますので、
笑いながら読んでいただければ嬉しいです。
生い立ち〜中学受験に失敗…まで
僕は会社員の父と専業主婦の母の元
生まれました。
好奇心旺盛な子供で
目を離すとすぐにいなくなる。
買い物先の迷子センターの常連になるなど、
母としては常に目が離せない
子供だったそうです。
父は忙しく土曜日も仕事。
日曜は疲れて午前中はほぼ寝ていました。
どちらかというと幼い頃は母と
過ごした記憶のほうが多いのですが、
父は何も言わずに
僕が興味を持ったことには
どんどん挑戦させてくれました。
母も常にニコニコ。
僕のチャレンジをいつも応援してくれていました。
遊び、スポーツ、勉強、
なんでもやらせてくれた両親には感謝しかないです。
様々なことにチャレンジし続けた僕でしたが、
小学校6年生の時
最初の挫折を経験します。
中学受験の失敗です。
僕の通っていた小学校はどちらかというと
そのまま公立の中学校へ進学する子が多く、
中学受験をしようとする
家庭はほとんどありませんでした。
僕がそれでも中学受験をしようとした理由は何か。
初恋の女の子が受験勉強を始めたからでした。
安易ですよね。安易すぎます。
よく両親は
チャレンジさせてくれたと思っています。
しかもその子は大手学習塾の公開模試で
全国10傑に入るくらいの才女。
普通に考えたらハードルが高すぎます。
それでも当時の僕は、
放課後の友達との遊びや
大好きなTVゲームを
2年間我慢して、勉強に明け暮れました。
しかし、念願叶わず不合格・・・
第1志望の学校はもちろんのこと、
受けた学校全部落ちました。笑
小学校の先生も、同級生も
僕になんと声をかけて良いのか困っているのが
幼い僕でもわかり
落ち込みました。
惨めな気持ちになりました。
そんな時に幼稚園の園長先生から
手紙をいただきました。
「人生に失敗ってないんだよ。もし合格できなくて失敗だと思っていたらそれは違うよ。新たな成功へのスタートなんだよ。」
失敗は失敗ではない。
成功へのスタート。
そうか。そう思うと
前向きにチャレンジできる。
そう思えるようになりました。
公立中学に進学し
僕は中学校生活を思い切り楽しみました。
我慢していた友達との遊び、TVゲーム。
そして部活で始めたバスケットボール。
当時は『SLAM DUNK』の絶頂期。
バスケ部大人気。
僕がバスケを始めた理由は
実は『SLAM DUNK』の影響ではなく、
「背を伸ばしてモテたい!」でした・・・笑
結論から言うと背は168センチまでしか伸びませんでした。
背は伸びませんでしたが、
本当にバスケには夢中になりました。
好きすぎて、大学・社会人時代には
小学生・中学生のコーチをするまでに至りました。
不思議なもので、何でも前向きに楽しんでいると
色々なものがうまく回ります。
今考えると、そんな感覚は
中学時代にすでに経験していたのだなあと思います。
背は伸びませんでしたが、少しだけモテ期もありました。
そんな感じで公私共に充実し、高校受験。
今度は第一志望の高校に合格することができました。
大学受験に失敗…
僕の通っていた高校はとにかく自由。
「自分の行動には自分で責任を持つべき」という校風。
とにかくその日やりたいことを
仲間と思い切り楽しんでいました。
部活のバスケ。
体育祭・文化祭、授業をサボって河原で遊ぶ。
毎日何も考えずただただその日、
やりたいことをやって過ごしていました。
そして、あっという間に卒業後の進路を考える時期に。
「大学に行く?」「どこの大学?」「それとも仕事?」
「自分がやりたいことってなんなんだろう・・・?」
浮かびません。
毎日、その日が楽しければよいスタンスで
過ごしていたツケがやってきます。
そして2つの理由から安易な選択に・・・。
当時僕には彼女がいました。
自由な校風の中、きちんとした目的意識を持った人で、
将来の目標もきちんと持っている人でした。
彼女の志望校は、「早稲田大学」。
よし、僕も早稲田行ってみるか!と考え始めました。
さらに追い打ちをかけるようにニュースが。
広末涼子、早稲田大学志望!!
「まじで?」「同級生になれるかもしれないってこと?」
安易。安易オブ安易です。
早稲田大学がどんな学校なのか。
合格のためにどれだけハードルがあるのか。
早稲田に行ってそもそも何をするのか。
何も考えず、早稲田を目指すことにしました。
そして・・・
落ちました。
ちなみに、その他の大学も落ちました。
受験をすると決める前までは遊んでばかり。
高校の勉強の基礎がほぼない僕が受かるはずもありません。
受験すると決めながら、松坂大輔選手の甲子園に夢中になり、
夏期講習に行かず、甲子園をずっと見る。
受かるための「覚悟」も足りません。
彼女と広末涼子は見事合格。
彼女はその後慶応ボーイに取られ、
広末涼子との同級生になる夢もはかなく散りました。
「僕はなにがしたいのだろう?」
こんな状況になっても、まだ決まりません。
浪人生活を送りながら、
1年自分の将来を考えることにしました。
浪人時代
浪人生となって、予備校に通い出しました。
とは言っても、親に迷惑をかけている気持ちも強く、
学費の一部をきちんと自分で払うため、
某ドーナツ店でアルバイトも始めました。
「自分で働いてお金を稼ぐ」という
経験を初めてしたのがこの時期。
お金を稼ぐ事の厳しさ、接客業の厳しさ、
大人の世界を垣間見ました。
当時は時給750円。
1時間働いてこれかよ〜・・・と思った時もありました。
一方で仕事の段取りなど学びも多かったですね。
アルバイトの身ながら
キッチンを任せてもらえるようになり、
開店前深夜に一人でオープン時点の
ドーナツを作る経験もしました。
責任を持って働く。信頼を得る。給料をもらう。
この時期に経験できたことは大きかったです。
アルバイトを経験することで、
自分が学びたいこともちょっとずつ見えてきました。
商売や経済についてもっと知りたい。
そう思うようになりました。
行きたい大学や学部も定まりました。
ちなみに早稲田大学ではありません 笑
もう、やることが定まったので
迷いなく勉強に集中できました。
そして、受験の時期が来ますがここでピンチが・・・
胸に謎の痛みが・・・
2月前半スベリ止めで受けた
大学試験会場に到着したときのことです。
息が苦しくなるくらいの痛みが僕を襲いました。
正直その日は試験どころではなかったのを覚えています。
なんとか帰宅して、母と一緒に病院へ。
肺に穴が空いていました。
緊急で身体に管を通して手術を実施。
なんとか事なきを得ましたが、
その後の受験に耐えられるかどうか…
迷った末に無理して出願したすべての大学を受けるのではなく、
体調を優先して、万全の体制で
志望校に絞って受験することにしました。
もう、賭けです。落ちたらもう1年浪人。
「怖い、でも受かりたい」その思いしかありませんでした。
当日、体調はよくなんとか受けることができたものの、
帰宅してからはぐったり。
しばらくは家でゆっくりしていました。
合格発表を会場まで見に行く元気がなく、
電話で合格確認をしました。
結果・・・
「受験番号 **** 番は・・・・・」
間が怖い・・・
「おめでとうございます!合格です!」
初めて、明確に立てた目標が叶った瞬間でした。
嬉しかったですが、それ以上にアルバイト先の仲間や、
両親、兄弟が喜んでくれたのがとても嬉しかったですね。
大学時代
念願の志望校に入学した大学時代。
せっかく入ったにも関わらず、
学業はおろそかになり、
僕は2つのことにハマります。
- パチスロ
- 小中学生のバスケットボールの指導
ギャンブルにハマってしまいました。
パチスロです。
当時は爆裂機と言われる機種が全盛の時代。
なにもない普通の大学生が1日で6桁収益。
場合によっては7桁も。
そんな夢がある時代でした。
お金に困っていたわけではありませんでしたが、
一度勝ったときの中毒性にやられてしまいました・・・
大学に行く途中にあるパチスロ店。
「今日は授業に行くんだ」と決意した日も、
結局気がつくとお店にいました。
パチスロって面白いもので、
当たる可能性が高い台を確保できると
かなりの確率で当時は勝てました。
毎日お店が各台に確率を設定。
客はどの台がお宝台か考えて、座る。
いわば、店と客との心理ゲームです。
このゲームにハマってしまいました。
勝った日は出続けるので授業に行けない。
負けた日はやる気を無くして授業に行けない。
悪循環ですね。
運良く勝つことが多く、もしかするとこの頃が
一番自由に使えるお金が多かったかもしれないです。
そして、そのお金でやりたい放題していました。
時には相当危ない場面に遭遇したことも・・・
もし辞める決断をしていなかったら
どうなっていたかを想像すると怖いですね。
そんなパチスロを辞めることができたのは、
小中学生のバスケットボールコーチをすることになったからです。
僕自身は高校の時に大怪我をしてしまい、
プレイヤーとしてバスケを楽しむことが難しい状況。
そんな中、9つ年の離れた弟が
地元のクラブに加入したことがきっかけでした。
コーチはほとんどがパパ・ママ。
平日は仕事をしているため、指導が難しい。
平日にコーチができる
経験者をちょうど探していたとのことで、
声をかけていただきました。
完全なボランティアではありましたが、
大好きなバスケに関われること。
子どもたちの成長に関われること。
それが自分の成長にもつながること。
気づいたら大学から
社会人になってからも通算9年ほど続けました。
教え子の最高成績は県でベスト8。
高校になってからインターハイに
出場する選手も輩出できました。
教え子たちは今やみんな社会人。
それぞれの場所で頑張っています。
未だに僕のことを慕ってくれるのはとても嬉しいですね。
人のために頑張る。それにより僕も成長する。成長できる。
思い返すとこの頃
そういった喜びに潜在的には気づいていたのかもしれません。